2002年 8月 29日
大阪府知事 太田房江 殿
日本魚類学会会長 松浦啓一
我が国最古の湖で世界有数の古代湖でもある琵琶湖を水源とする淀川水系は、水の都大阪の象徴であると同時に、数多くの固有種を含む世界的にも貴重な淡水生物の宝庫としても知られています。また、生駒・金剛・和泉の各山地を水源とする数多くの独立河川も、古代から各流域固有の文化と豊富な淡水生物相を育んできました。祖先から受け継いだこれらの素晴らしい財産を後世に伝えることは、我々に課せられた当然の責務です。
人間と自然との望ましい共存のあり方が問われる現在、我々に課せられたこの責務はますます重くなってきていますが、残念なことに我が国の河川生態系は既にその本来の姿を失いつつあります。過去100年余にわたる過大な開発行為によって、我が国の河川の多くでは水生生物の揺り籠とも言うべき氾濫原の自然環境が消失し、水生生物の多様性を維持するために不可欠な生息環境の多様性が大きく低下してきました。そのため、多くの在来種は、僅かに自然の残された水域に閉じこめられ、細々と生き永らえているのが現状です。
大阪府下では、本来の水辺の自然に似た環境の残る淀川河川敷のワンドの環境保全など先駆的な試みが行われ、イタセンパラをはじめとする貴重な固有種の保護に明るい兆しが見え始めています。しかし、ワンドという特殊な環境だけでは、多様な生態を持つ在来種の全てを保護することは不可能です。淀川の支流や河内・和泉地域の小規模水系には細流特有の安定した多様な環境の残る水域が散在し、特にその水源の溜め池や農業用水路網を中心に東瀬戸内型のメダカのような希少種が細々と生き永らえているのです。これらの魚種とその生息環境については、ワンドとは別途に新たな保護対策を講じることが不可欠であることは言うまでもありません。しかも、土地開発による細流の環境悪化には現在も歯止めがかかっていないので、早急に保護対策を具体化しなければ細流の水生生物相は維持できなくなるものと危惧されています。
そのような過酷な状況にさらに追い打ちをかけたのが、オオクチバスやブルーギルなどの外来魚の侵入です。在来種とは異なる摂餌習性や繁殖習性を持つこれら北アメリカ原産の外来魚の侵攻に対して、在来種は有効な対抗手段を習性として持ち合わせていないと推測されます。なぜなら、在来種は歴史的(地史的)にこれらの外来魚と同居したことがないからです。そのために、全国各地で水生生物群集に取り返しのつかない甚大な影響が現れることがわかってきました。特に、ワンドや溜め池のように小規模な水域ほど、外来魚の影響はより速やかに劇的に現れ、在来種の局所的消失といった深刻な事態を招きやすいことが明らかにされています。
水産庁は、ブラックバス(オオクチバスやコクチバスの総称)やブルーギルの急激な分布拡大の主因は意図的な無断放流にあるとして、全国の都道府県に対して両種の自然水域への放流抑止を求め、現在ではほぼ全国的に両種の移殖を禁じる規則が施行されています。しかし、この規則では、釣った魚をその場で再放流するキャッチアン ドリリースや、魚を生かしたまま持ち運ぶことまでは禁じていないこともあり、密放流の横行は止まらず、移殖禁止の規則そのものが空文化しかねない状況になっています。そこで、一部の都道府県では、釣り上げた外来魚の再放流を禁じる規則を制定し、過熱したバス釣りブームを沈静化させるべく努力を続けています。
今般、貴府に対して、バスの公認釣り場の増設を求める(財)日本釣振興会からの要望書が提出されたこと、および、貴府の水産課が外来魚の今後の取り扱いに関して広く府民の声を募集しておられることを知りました。その背景には、既存の規則では密放流の横行が止められないという切実な現実があるとも聞いております。しかし、移殖禁止規定に反してこれらの外来魚の分布拡大が全国規模で続くことは、違法行為である意図的な放流が十分に抑止されていないことを意味するものです。このような状況におけるバスの公認釣り場の設置は、違法行為を追認することに他ならず、違法行為をさらに助長する可能性すら懸念されます。違法行為の成果を無批判に甘受しながら「バス釣りブーム」が無秩序に展開したことを既成事実として容認するからこそ、これまで横行した密放流が現在も抑止できないのではないでしょうか。その意味からも、バス釣りの世界にモラルと規律を持ち込み、過熱したブームを沈静化させることがまず必要でしょう。ブラックバスが問題視される昨今、ブームで利益を受ける側の業界には、再発防止や現状回復へ向けての努力が求められるはずですが、実際には、そうした対策に取り組まぬまま、「棲み分け」案が解決策として提唱されています。駆除のために釣り上げたブラックバスを特定の水域に移せばすべての問題が片づくかのような、耳あたりのよい安直な宣伝が行われておりますが、少し検討すれば、人手、設備、費用の面はもちろん、収容したバスの餌として利用されるであろう在来種への影響など、この案には実効性に数々の難点のあることが明らかであり、問題の根本解決にはほど遠い杜撰な考え方です。
以上のような諸般の事情を配慮すれば、現在のブラックバス問題の解決のためには、「釣り上げた外来魚を生きたまま元の水域に放流したり他の水域に持ち出すことを禁止する」などの規制強化と、釣り業界に対してバス釣り用具の製造と販売、宣伝の自粛を求めることにより、バス釣りブームそのものを沈静化することこそが、最も有効な対策と言えるでしょう。
ところで、バス問題に関するパブリックコメント募集に対しては、「自由」を奪われる立場、とくにバス釣り人たちからの反対意見が殺到し、業界などによる組織票の噂が絶えません。多数決は民主主義の基本ですが、この案件のように府民の意見の無作為抽出が難しい場合においては、寄せられた意見の賛否の比率そのものを行政が判断材料として利用することは不適切です。また、生物群集や生態系など、複雑なシステムの管理について適正な判断を下すためには、この分野に関して豊富な知識を有する専門家の協力を仰ぐことが必要です。今回、日本魚類学会会員1400名の総意を代表してこの意見書を提出するのは、「バス釣り場の公認による棲み分け政策」が世論全体における多数意見であるかのような発表・報道がなされる可能性を憂慮したからでもあります。
幸い、大阪府には水生生物や生態学に関して詳しい知識を備えた専門家が数多く居住し、すでにレッドデータブックの発刊をはじめ、環境保全に関わる事業にも関わっておられます。まずはそれらの専門家の意見を聴取し、外来魚が貴府の内水面の自然に及ぼす影響とその拡大の可能性に関して十分な裏付け資料を整えられた上で、アンケートなど無作為性の高い方法で府民全体の意見を募られるべきだと考えます。なお、今回の電子会議室に寄せられたさまざまな意見の中には、根拠のない感情論や学術的に誤った内容を含むものも散見されます。従って、その取り扱いについては、生物学や生態学、社会心理学、環境社会学、環境経済学などの専門的な視点から、冷静に判断されるべきだと考えます。
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