2004年6月19日に東京海洋大学で開催されました日本魚類学会公開シンポジウム「淡水魚の放流と保全ー生物多様性の観点から」を契機に,魚類学会において「魚類の放流ガイドライン」の策定が必要であるとの合意が自然保護委員会でなされました.これを受けて,本委員会のメンバーである森,渡辺,前畑の各氏と三重大学の原田泰志氏を中心としたガイドライン作成のためのワーキンググループ(WG)が委員会内に作られました.それ以降,このWGで活発に論議・検討が重ねられ,2005年1月初旬に「生物多様性の保全をめざした魚類の放流ガイドライン(案)」が作成されました.このWG案を基に自然保護委員会で検討し,2月初旬に改定案(自然保護委員会案)が確定された後,役員会を経て,評議員のメンバーに賛否が諮られました.本自然保護委員会案は一部の修正をもって2005年3月26日に評議員会での承認が得られた次第です.
以下に,日本魚類学会として決定されました「生物多様性の保全をめざした魚類の放流ガイドライン」をお知らせし,今後の魚類の放流と保全活動に当たっての指針として活用して下さるよう,お願いします.
放流ガイドラインの「要約」は本文を簡潔にまとめたものですが,「はじめに」以後の本文もぜひお読み下さるようお願いします.
(自然保護委員会)
生物多様性の保全をめざした魚類の放流ガイドライン
(放流ガイドライン,2005)
日本魚類学会
要 約
基本的な考え:希少種・自然環境・生物多様性の保全をめざした魚類の放流は,その目的が達せられるように,放流の是非,放流場所の選定,放流個体の選定,放流の手順,放流後の活動について,専門家等の意見を取り入れながら,十分な検討のもとに実施するべきである.
- 放流の是非:放流によって保全を行うのは容易でないことを理解し,放流が現状で最も効果的な方法かどうかを検討する必要がある.生息状況の調査,生息条件の整備,生息環境の保全管理,啓発などの継続的な活動を続けることが,概して安易な放流よりはるかに有効であることを認識するべきである.
- 放流場所の選定:放流場所については,その種の生息の有無や生息環境としての適・不適に関する調査,放流による他種への影響の予測などを行った上で選定するべきである.
- 放流個体の選定:基本的に放流個体は,放流場所の集団に由来するか,少なくとも同じ水系の集団に由来し,もとの集団がもつさまざまな遺伝的・生態的特性を最大限に含むものとするべきである.また飼育期間や繁殖個体数,病歴などから,野外での存続が可能かどうかを検討する必要がある.特にそれらが不明な市販個体を放流に用いるべきではない.
- 放流の手順:放流方法(時期や個体数,回数等)については十分に検討し,その記録を公式に残すべきである.
- 放流後の活動:放流後の継続的なモニタリング,結果の評価や公表,密漁の防止等を行うことが非常に重要である.
はじめに
本ガイドラインの対象は,希少種を中心とする魚類の放流であり,その目的は地域集団(個体群)や生物多様性(※1)の保全である.放流は自然復元のための一つの手段であり,科学的・合理的根拠に基づいて実施されるべきである.本ガイドラインは,放流に関わる者が放流を行うことによる保全上の有効性を検討し,有効と判断された場合に,適切な放流集団を選択し,適切な場所に,適切な方法で放流するための指針である.
本ガイドラインを作成するに至った背景として,希少種や自然環境の保全をめざして,メダカやコイを含む魚類の放流が各地で盛んに行われている現状がある.残念ながら,これらの放流は,本来の生物保護や生物多様性の保全に役立っていなかったり,むしろ有害な場合すらある.国際自然保護連合が再導入のためのガイドライン(※2)にまとめているように,生物多様性の保全を目標とした放流は,自然復元プログラムとして位置づけられるべきである.
なお,本ガイドラインは,主として野生集団の保全を目的とする放流のためのものである.それ以外の目的を含む水産業やレジャー,ペット投棄などに伴う放流行為を対象としない.しかし,これらの放流も,生物多様性の保全に反して実施されることは望ましくないため,共通する検討事項は多いはずである.
放流に関わる生物多様性に対する問題点には下記のようなものがある.
- 生息に適さない環境に放流した場合には,放流個体が短期間のうちに死滅するだけに終わる.
- 在来集団・他種・群集に生態学的負荷(捕食,競合,病気・寄生虫の伝染など)を与える.ひいては生態系に不可逆的な負荷を与えうる.
- 在来の近縁種と交雑する.その結果,遺伝・形態・生態的に変化し,地域環境への対象種の適応度が下がる.交雑個体に稔性がない場合には,直接的に在来・放流両集団の縮小につながる.
- 在来の同種集団が,遺伝的多様性(※3)が小さい,あるいは在来集団と異なる遺伝的性質をもつ放流個体と混合したり,置き換わることにより,地域環境への適応度が下がる.
これらの問題を回避するために安易な放流の実施は避けるべきであり,以下の項目を検討するために,さまざまな活動主体(地域住民・市民,行政,研究者,博物館・水族館等)が社会的コンセンサスの下で協働することが望ましい.同時に,本ガイドラインとその主旨を教育や社会活動の場で啓発・周知していく必要がある.
1.放流の目的と是非
種は一般に複数の地域集団(個体群)から構成される.地域集団は個々に異なる歴史的背景をもち,遺伝的分化を遂げつつある進化的単位である.したがって,放流は歴史的産物である集団の本来の姿を損なう可能性があり,自然環境の保全と相反する行為となりうる.放流が保全上有効な手段であることが予測・説明されない限り,安易に実施するべきではない.
しかしながら,希少魚や地域集団,ひいては群集の保護・保全のために,むしろ放流を促進すべき状況がありうる.例えば,人間活動によって直接・間接的に地域集団や群集がすでに大きく損なわれ,自然集団の維持や再定着のためには,人為的にそれらを復元したり,その補助をすることが求められる場合である.そのための手段としての放流は,上記の問題点に留意し,それらを解決した上で実施されなければならない.また,放流による集団の維持・保全の成功のためには,時間および人的・経済的コストがかかることも認識しておく必要がある.
保全・自然復元のための放流は大きく3つのタイプに分けることができる.
- 再導入re-introduction:ある種がもともと自然分布し,絶滅してしまったところに,放流により集団を復元させようとすること.
- 補強re-inforcement/supplementation:現存の集団に同種の個体を加えること.
- 保全的導入conservation/benign introductions:保全の目的で,もとの分布域外の適切な生息場所に,ある種を定着させようとすること.
当該の放流がどのタイプに相当するのかを事前に明確にし,それぞれに対応した方法をとるべきである.
- 対象となる種が生息地ですでに絶滅している場合,元の集団と遺伝的・生態的になるべく近いものを復元することが目的となる(再導入).
- まだわずかな個体が生息地に残っているが,自力では集団が維持できない可能性が高い場合には,現存の集団の遺伝・生態的特性を最大限残すようなやり方で,個体を加える(補強).
- 保全的導入は,原則として,その種本来の分布域内に生息可能地が残されていなかったり,本来の分布域にある生息可能地だけでは,集団の存続が困難と予測される場合にだけ試みられるべきである.
- それ以外の場合,つまり,絶滅の危険性が低い在来集団の生息場所に放流を行うことは,保全上の意義よりも悪影響が大きい場合があるので,放流以外の保全策を検討すべきである.例えば,分布生息状況や生息条件(水質,すみ場所,捕食者など)の調査,減少要因の解明,生息環境の保全管理と改善・整備,継続的な啓発活動などである.
2.放流場所の決定
- 放流は,特別な根拠がある場合を除いて,もとの生息場所付近で行うべきである.
- 放流に先立ち,対象となる種がその場所ですでに絶滅したのか,あるいは放流を行わない限り近い将来絶滅する可能性が高いことを,事前の調査活動により,できるだけ高い精度で明らかにしておくべきである.そうでない場合,原則として,放流以外の保全策を検討すべきである.
- 対象種が生活史をまっとうする条件を,その場所が備えている必要がある.例えば,水質,餌,産卵場所,回遊経路に問題がないこと,集団の維持が困難となるような捕食者が存在しないことなどである.また,必要に応じて,環境改善,捕食者の排除などを実施し,生息条件を整える作業も重要である.
- その場所で,遺伝的多様性の消失や深刻な近交弱勢(※4)が避けられるよう,十分な個体数が維持できる必要がある.
- 放流個体とその場所の近縁種との間で交雑が進むと予測される場合には,放流を行うべきではない.
- 他の希少な在来種が不利な影響を受け,絶滅が予測される場所への放流は行うべきではない.
- 放流場所の管理や所有に関わる諸条件を考慮し,関係者や地域住民との協議を行い,事後の検証も実施されるよう合意を得るべきである.
3.放流個体の選定
- 放流個体は,原則的に,放流場所の集団に由来するものであるか,または放流先と同じ水系の地理的近傍に生息し,かつ遺伝的・生態的に近い集団からのものとするべきである.
- 放流する個体数は,遺伝的多様性を維持するために,多数であることが望ましいが,それらの個体を確保するために,提供元の集団の存続を危機にさらしてはならない.
- 地理的隔離のある複数集団の混合は,交雑により適応度が低下する可能性があるので(異系交配弱勢※4),避けるべきである.ただし,放流個体あるいは放流場所の集団において,本来の遺伝的多様性の消失や近交弱勢が進んでいると認められる場合には,集団間の混合も選択肢として考慮されうる.
- 飼育個体に関しては,元の産地,飼育期間,病歴,遺伝的多様性に関する情報(親魚数や繁殖環境,遺伝マーカー※5 による調査結果など)が明らかであり,それらが保全の目的に適した場合に限り,放流魚として扱うことができると考えるべきである.特に,上記の情報が不明な市販個体を放流魚に用いるべきではない.
- 以上の事項を踏まえた上で,最適な放流個体を選定するべきである.
4.放流の手順
- 放流場所が法律や地権者などの管理下にある場合,承認・了解を得るための手続きや協議を行う必要がある.
- 放流個体への負荷を軽減するために,放流の時期,放流個体数,成長段階,移動手段,放流回数などを考慮するべきである.
- 放流を行った記録を公式に残し,保全目的に反しない限り,公開すべきである.
- 在来集団および放流個体について,事前に十分な分類学的な検証を行うべきである.もし分類学的に未解決な問題が残った状況で放流を進めざるえない緊急な場合には,今後の分析のために形態および遺伝分析が可能な標本を保存しておくべきである.
5.放流後の活動
- 放流場所における集団の生息状況(生残,繁殖個体数,再生産,環境変動への応答,遺伝的性質など)や他種,生態系への影響に関するモニタリングを行う必要がある.
- 放流によって復元された集団の遺伝的多様性を維持するために,放流個体を補充することが望ましい場合がある.その場合にも,放流個体の選定については十分な検討を行うべきである.
- 当初の目的(再導入や補強など)が達成されているかどうかを評価するべきである.もし放流による集団の復元が失敗した場合も,その後の施策のために,その失敗理由を把握することが非常に重要である.
- 放流後の過程で得られた知見や結果を蓄積し,かつ広く周知することが望ましい.
- その他,密漁防止策,外来種の侵入の防止策,異常渇水等の緊急的な避難対策などが必要であり,これらを効果的に行うために,地域住民や関係団体との連携が必要である.
注釈
※1 生物多様性:遺伝子から集団,種,景観,生態系にいたる生物や生物間相互作用の多様性の総体
※2 IUCN/SSC Guidelines For Re-Introductions(国際自然保護連合/種の保存委員会,再導入専門家グループ),http://www.iucnsscrsg.org/
※3 遺伝的多様性:あるグループ内の遺伝的な変異の大きさ.各種の遺伝マーカー(※5)で実測される.
※4 近交弱勢,異系交配弱勢:近親交配(近交弱勢)または遺伝的に遠縁の集団との交配(異系交配弱勢)によって,生残力や繁殖力が弱い個体や集団を生じること.
※5 遺伝マーカー:タンパク質あるいはDNA の情報を用いて個体や集団の特徴を調べるための標識.特にDNA マーカー(mtDNA や核DNA の塩基配列,マイクロサテライト,RFLP,AFLP,SNPs など)は無水エタノール中で保存した微量な組織標本で分析可能なので,利便性が高い.
2005年3月26日策定 |